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血が欲しいとカラダが吼える

たまに、ニラレバが食べたくなる。

レバーは嫌いなのだが、近所のラーメン屋の
ニラレバ定食だけは、ギリセーフ。

薄く切ったレバーを、一度、素揚げしてくれる
ので、あの独特の臭みが飛ぶ。

味付けもいい。

カラダが、「血をくれ~!」とざわつくときは、
ここのニラレバ定食を食べることにしてる。



カラダってのは、実に素直なもので。

果物や野菜もあまり食べないのだが、時折、
無性に食べたくなるときがある。

そういうときは、間違いなく、身体の中で
何かが足りていなくて、不足した何かがある
食べ物を求めるんだろう。



だから、そうしたカラダの声には素直に従う。

素直に従ったときの嫌いな食べ物というのは
なぜか、とってもうまい。

おかげで、大嫌いだった春菊や牡蠣フライも
食べられるようになった。



ただ、唯一、どうしてもダメなのは、納豆。

こいつだけは、食いたいと思わない。

食えなくはないが、うまいと思ったことは、
過去にたったの一度もない。

天敵みたいなものだ。

糸切りのうまい人を見ると、それはそれで、
いいなあ~、と憧れるけれど。

生涯、自ら好んで喰らうことはあるまいな。



近頃、カラダが重い重いと文句を垂れてる。

そろそろ、稽古に復帰したいが……。

また、寝る間もない激務が始まる。

重くて動かなくならないようには気をつけよう。




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ワンピまつり☆

昼間は、ウイスキーピークのダイジェスト。

うーん、いいわあ~、と堪能♪



散髪に行った帰り、コンビニを覗くと。

3rd LOG(ナミ編)が出てたので、買った。

持ってるけど。(おほほ)

で、アーロン編を堪能し。



夜は、エピソード・オブ・アラパスタ。

よかった。

うーん、よかったんだけど……。

やっぱ、アラバスタ偏を2時間にまとめるのは、
かな~り、無理があったか。(苦笑)

本編は、いいシーンてんこ盛りだからねえ。

長かったけど(笑)、あの長~い本編を見たあと、
ラストを見ると、たまんないのよねえ~。

アラバスタ偏のログ、どこに片したっけ?

今すぐ、読みたい気分。(笑)



でもやっぱ、ワンピはいいな。

元気をくれる。

スカッとした♪



さてと。

ワンピまつりは、とりあえず、終えといて。

お仕事とお勉強だわ☆




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なんてもんじゃないね

ただいま、某所37℃。

深夜勤もあるから、寝ていたいんだけど、
こう暑くちゃ、寝ていられない。

だいたい、最低気温が29℃ってなんだ!

あー、あつい。

うー、あつい。



トイレも暑くて、ひとふんばりすると、ひとっ
風呂浴びたように、汗だくだく。

大途中で熱中症、は、シャレにならん。



海に行きたいなあ~。

いや、ここまで暑いと、高原の方がいいか。

蓼科、行きたーい!



けど、行くも何も。

こう暑くちゃ、外にも出たくない。

この猛暑は今日までだと言うが、はてさて、
予報は当たるのかな?

いや、当たってほしい。



あ、勉強しなきゃ!

ボチボチとはやってるんだが、なにせ、する
ことが多すぎて、手が回らない。

せめて、来週は集中したいところだが。



暑いなんてもんじゃなく。

忙しいなんてもんでもなく。

あー、なんてもんじゃないわねえ~。



それでも、時は過ぎていく、この無常。




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毎年、思うこと

終戦の日。

この日になると、必ずといっていいほど、

「太平洋戦争は、日本の侵略戦争だった!」
「バカ言ってんじゃねえ! ありゃ、解放戦線だ!」

といった議論があちこちで始まって。

しまいには、

「おまえら、日教組に洗脳されてんだ!」

ってな話が出てくるけど。



ホントに、そんな話はあるのか?



というのもね。

わし自身が、そうした反戦教育をされた記憶が
ないんだよ。



終戦の日は、たいがい登校日だったような気が
するんだけど。

学校で行なわれたことといえば、ナンタラの映画
みたいなのを観て、先生の話を聞くことくらい。

映画も、「だから、戦争は悪い!」というような
メッセージをごり押しするものじゃなくて、一人の人
や一つの家族に起こった事実を、ドラマにしている
だけのもの。

火垂るの墓と変わらない。

先生の話も、反戦イデオロギーに凝り固まったもの
ではなくて。

自分の兄や親が出兵して死んだ話とか、戦時中の
生活のことなんかだったなあ。

だから、戦争はダメ、と言われたことはなく、そうした
ことがありました、と話されただけ。

親戚のオッチャンらに戦争の時の話を聞いてるのと
あんま変わらなかった。



それらを見聞きして、何を感じたか。

単純に、戦争は、いろんな人に哀しい思いをさせて
しまうんだなあ、と思い。

できれば、戦争なんかない方がいいわな、と思った
だけのこと。

ガチガチの反戦家にもならなかったし、といって、
戦争肯定派にもならなかった。

ほとんどの連中は、同じような受け止め方をしてた
んじゃなかろうかな?



はだしのゲンや火垂るの墓を、プロパガンダと呼ぶ
人たちもいるけど。

さて、そうだろうかな?

はだしのゲンも、今読み返してみると、そこかしこに
反戦メッセージやある種の思想が入っているのは
わかるけど、子供の頃感じたのは、懸命に生きてる
子どもたちの強さだったな。

どんな状況下でもたくましく生きる人の姿ってのは、
やっぱ、見ていて感動するものだ。

素直に受け取れば、それだけの話だぞ。



個人的にはね。

戦前、戦中、戦後を生きてきた個々人の話と、
戦争の検証は、同時に語るべきではないと思う。

戦争ってのは、個人の一感情で勃発するほど、
単純なものじゃないよね。

そこには、いろんな背景がある。

だから、侵略戦争という解釈も、解放戦争という
解釈も、間違ってはいないんだ。

どちらかに偏る方がおかしい。

どちらが正しいと白黒を付けなくても、きちんと、
是々非々で検証していればいいだけのものだ。



かたや、そうした検証に、戦争を体験した人たちの
感情を重ねるべきでない。

個人の悲惨な出来事と感情を、検証に混ぜてしま
えば、そこで、判断が狂うからだ。

殺人という事実を法で裁くのと、殺人を犯した人の
感情を推し量るのは、まったく別でしょ?

同じこと。



反戦家の多くが、戦争はこんなにも多くの人を不幸に
してしまうものだから、絶対にダメ! という言い方を
するけれど。

それは違うと思うんだよ。

んなことは、言われなくてもわかってる。

ただ、個人個人が戦争を拒絶しても、大きな流れに
巻き込まれてしまうこともあるじゃないの。

本当に反戦を唱えるなら、個人ではどうにもできない
流れが生じたときに、どう食い止めるのか、具体的な
方法論を提示してほしいと思う。

ただただ、個人の感情に訴えるのではなくてね。



日教組が~、と喚いている人たちにも考えてほしい。

たしかに、そうした勢力が過度な反戦を刷り込んだ
事実はあるのかもしれないけどね。

おまえ、洗脳されてるんだ! とごり押しして、自分
たちの思想を押しつけるのは、結局、相手をまた違う
思想に転向させるだけのことなんだよ。

それでは、自分で考える力は育たない。

その時の「絶対」に流される。

戦争が拡大の一途を辿ったのは、そうした集団心理
もあったんじゃないのかな?



学術的検証、思想、個人の感情は、すべて分けて
考える。

わしゃ、平和運動家でもなんでもないが、本当に
平和を願うなら、個々にそうした目を養っていくことが
大事なんじゃないだろうかな?

逆に、そうしたものを混ぜこぜにして、論で丸め込もう
とする連中は、疑った方がいい。

そこには、何らかの意図があるからね。

侵略戦争としたい人にも、解放戦線としたい人にも、
そうして偏らせたい理由があるんだよ。

わしは、その流れこそ、疑うべきものだと思う。



そうした目を個々人が持てば、あるいは、戦争は
なくなるかもしれんよね。

一つのプロパガンダに流されることがなくなるから。



まあ、いずれにしても戦争をしたい人はいないはず。

終戦の日に垂れ流される検証番組や映像、ネットで
繰り返される不毛な議論に意味があるのだとすれば。

やっぱ、戦争はなけりゃないほうがいいわな、という
ことを再認識させてくれること、くらいかな?

それが本質なんだろう。



情報過多な時代だからこそ、逆に、ある一つの意見、
考えに偏らないようにしたいと、わしは思う。

で、単純な本質は、忘れないようにしたいと思う。




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