終戦の日。
この日になると、必ずといっていいほど、
「太平洋戦争は、日本の侵略戦争だった!」
「バカ言ってんじゃねえ! ありゃ、解放戦線だ!」
といった議論があちこちで始まって。
しまいには、
「おまえら、日教組に洗脳されてんだ!」
ってな話が出てくるけど。
ホントに、そんな話はあるのか?
というのもね。
わし自身が、そうした反戦教育をされた記憶が
ないんだよ。
終戦の日は、たいがい登校日だったような気が
するんだけど。
学校で行なわれたことといえば、ナンタラの映画
みたいなのを観て、先生の話を聞くことくらい。
映画も、「だから、戦争は悪い!」というような
メッセージをごり押しするものじゃなくて、一人の人
や一つの家族に起こった事実を、ドラマにしている
だけのもの。
火垂るの墓と変わらない。
先生の話も、反戦イデオロギーに凝り固まったもの
ではなくて。
自分の兄や親が出兵して死んだ話とか、戦時中の
生活のことなんかだったなあ。
だから、戦争はダメ、と言われたことはなく、そうした
ことがありました、と話されただけ。
親戚のオッチャンらに戦争の時の話を聞いてるのと
あんま変わらなかった。
それらを見聞きして、何を感じたか。
単純に、戦争は、いろんな人に哀しい思いをさせて
しまうんだなあ、と思い。
できれば、戦争なんかない方がいいわな、と思った
だけのこと。
ガチガチの反戦家にもならなかったし、といって、
戦争肯定派にもならなかった。
ほとんどの連中は、同じような受け止め方をしてた
んじゃなかろうかな?
はだしのゲンや火垂るの墓を、プロパガンダと呼ぶ
人たちもいるけど。
さて、そうだろうかな?
はだしのゲンも、今読み返してみると、そこかしこに
反戦メッセージやある種の思想が入っているのは
わかるけど、子供の頃感じたのは、懸命に生きてる
子どもたちの強さだったな。
どんな状況下でもたくましく生きる人の姿ってのは、
やっぱ、見ていて感動するものだ。
素直に受け取れば、それだけの話だぞ。
個人的にはね。
戦前、戦中、戦後を生きてきた個々人の話と、
戦争の検証は、同時に語るべきではないと思う。
戦争ってのは、個人の一感情で勃発するほど、
単純なものじゃないよね。
そこには、いろんな背景がある。
だから、侵略戦争という解釈も、解放戦争という
解釈も、間違ってはいないんだ。
どちらかに偏る方がおかしい。
どちらが正しいと白黒を付けなくても、きちんと、
是々非々で検証していればいいだけのものだ。
かたや、そうした検証に、戦争を体験した人たちの
感情を重ねるべきでない。
個人の悲惨な出来事と感情を、検証に混ぜてしま
えば、そこで、判断が狂うからだ。
殺人という事実を法で裁くのと、殺人を犯した人の
感情を推し量るのは、まったく別でしょ?
同じこと。
反戦家の多くが、戦争はこんなにも多くの人を不幸に
してしまうものだから、絶対にダメ! という言い方を
するけれど。
それは違うと思うんだよ。
んなことは、言われなくてもわかってる。
ただ、個人個人が戦争を拒絶しても、大きな流れに
巻き込まれてしまうこともあるじゃないの。
本当に反戦を唱えるなら、個人ではどうにもできない
流れが生じたときに、どう食い止めるのか、具体的な
方法論を提示してほしいと思う。
ただただ、個人の感情に訴えるのではなくてね。
日教組が~、と喚いている人たちにも考えてほしい。
たしかに、そうした勢力が過度な反戦を刷り込んだ
事実はあるのかもしれないけどね。
おまえ、洗脳されてるんだ! とごり押しして、自分
たちの思想を押しつけるのは、結局、相手をまた違う
思想に転向させるだけのことなんだよ。
それでは、自分で考える力は育たない。
その時の「絶対」に流される。
戦争が拡大の一途を辿ったのは、そうした集団心理
もあったんじゃないのかな?
学術的検証、思想、個人の感情は、すべて分けて
考える。
わしゃ、平和運動家でもなんでもないが、本当に
平和を願うなら、個々にそうした目を養っていくことが
大事なんじゃないだろうかな?
逆に、そうしたものを混ぜこぜにして、論で丸め込もう
とする連中は、疑った方がいい。
そこには、何らかの意図があるからね。
侵略戦争としたい人にも、解放戦線としたい人にも、
そうして偏らせたい理由があるんだよ。
わしは、その流れこそ、疑うべきものだと思う。
そうした目を個々人が持てば、あるいは、戦争は
なくなるかもしれんよね。
一つのプロパガンダに流されることがなくなるから。
まあ、いずれにしても戦争をしたい人はいないはず。
終戦の日に垂れ流される検証番組や映像、ネットで
繰り返される不毛な議論に意味があるのだとすれば。
やっぱ、戦争はなけりゃないほうがいいわな、という
ことを再認識させてくれること、くらいかな?
それが本質なんだろう。
情報過多な時代だからこそ、逆に、ある一つの意見、
考えに偏らないようにしたいと、わしは思う。
で、単純な本質は、忘れないようにしたいと思う。